数学は総合的?分析的?

カントの純粋理性批判の中で、(アプリオリな)総合的判断の代表例として数学が出てくる。これについてちょっと考えたのでメモ。

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総合的判断というのは、判断のうちで分析的でないもののことを指す。では分析的な判断とは何かというと、主語の中に述語が現れる場合のみ該当の判断が「真」であるとみなすような判断(の体系)のことだ。カントはそのように定義している。

例えば次の判断について考える。

定義1:りんごとは、赤くてまるい果物のことを指す。
判断1:りんごは赤い。

判断1は分析的判断である。「りんご」という主語の内容(定義)を分析すると「赤い」という属性が入っていることがわかるためだ。同じく次に示す判断2も分析的判断だ。

定義2:みかんとは、オレンジ色でまるい果物のことを指す。
判断2:ある部屋にりんごまたはみかんが存在するならば、その部屋にはまるい果物が存在する。

では、「数学が総合的判断の代表」とはどういうことか?次の例を見てみる。

判断3:1 + 1 = 2

これは分析的な判断ではない、とカントは主張している。なぜなら「1」や「+」といった主語概念を分析しても、「2」という結論(述語)が出てこないためである。分析的でない判断は総合的判断である。

ある判断が総合的なのか分析的なのかというのは、純粋理性批判の中ではとても大事な役割をもっている。それについてはまた別の記事で触れるとして、僕が面白いなと思ったのは、代数学の枠組みにおいてはこの判断は分析的な判断であるということだ。

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1とか2とかの自然数は、(少なくともカントの時代までは)雰囲気で生まれて雰囲気で使われていたが、1891年にジュゼッペ・ペアノによってきちんと定義づけられている。これをペアノの公理と呼ぶ。以下、Wikipediaより引用。

自然数は次の5条件を満たす。

1. 自然数 0 が存在する。
2. 任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。
3. 0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。
4. 異なる自然数は異なる後者を持つ:a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。
5. 0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。

この定義にしたがえば、1は suc(0) であり、2は suc(suc(0)) である。あとは「+」の演算の定義を適切に行えば、判断3が分析的な判断であることがわかると思う。

ここで大事なのは1や2という数字を、そのまま扱うのではなく主語を分析できる形にきちんと定義したことだ。これによって自然数に関する判断は(総合的判断から)分析的判断に昇格し、そこから整数、有理数、実数、複素数が次々と定義され分析的判断の体系に仲間入りしていくことになる。

(では現代数学はすべて分析的判断なのか?というと、たぶんそういうことではない。たとえば図形などを扱う幾何学はおそらく総合的な判断のままなのではないかと思う*1。)

とはいえ、19世紀から20世紀にかけて、現代数学の基礎付けという名目で多くの数学者が、それまで雰囲気で使われていた数学の道具を分析的に整理しようという活動をしていたことは確かだ。カントールラッセルの公理論的集合論ヒルベルトゲーテルが関与したヒルベルト・プログラムもこの一環ととらえられると思う。

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カントは数学を総合的判断の代表例としてとらえていた。一方で、現代数学は先人の努力の甲斐あって少なくとも一部は分析的な判断となった。

僕は情報数学を専攻していたので、上記のペアノの公理はずっと知っていた。ただなぜそのようにして自然数を定義づけようとしたのかはあまりよくわかっていなかった。純粋理性批判を少しずつ読む中で、18世紀の哲学者カントが提起した分析的判断と総合的判断にまつわる問題意識が、その後19世紀20世紀の数学者の意識やとりくみに影響を与えているのかなというおぼろげなイメージが浮かんできて、おもしろいなぁと思った。

メモおわり。

*1:たぶんとかおそらくとか言っているのは筆者が幾何学をあまり知らないため、、、