感性の形式

カントが言うには、人が何かを認識する(例えばつくえが目の前にあると認識する)メカニズムには感性悟性が存在する。

感性とは、視覚・嗅覚・触覚・味覚などを通して、物自体から多彩な感覚を受け取る能力のことである。悟性とは、感性が受け取った情報を整理・統合して(例えば「目の前に机がある」という)判断を下す能力のことである。

カントによれば、このどちらが欠けても人は対象を認識することができない。感性がなければ対象物の情報を体にいれることができない(例えば目が見えない人は目の前に机があると認識するのは不可能である)。また、悟性がなければ入ってきた情報を整理して知覚することができない*1

それまで受動的な行為だと考えられてきた認識が、実は能動的な行為であり、認識する側に悟性という能力が必要になるのだということは当時の哲学界ではインパクトがあった。カント自身はこれを指して認識論のコペルニクス的転回と呼んでいる。

この記事で話したいのは2つの能力のうち感性のほうである。

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カントによれば、感性にはアプリオリに備わった2つの形式がある。時間空間だ。

なぜこれらがアプリオリな(=経験に依存しない)形式と呼ばれているのかというと、対象のもつ様々な属性(重さ、色、形、質感、におい、etc.)から経験的な要素を次々と除いていった場合に、最後まで取り除くことができないのがその対象がある空間を占めるということと、ある時間に存在するということだからだ。別の言い方をすると、私たちは感性をもって何かを認識する際に、対象のもつ属性のなかに時間や空間という属性が存在しないということを想定できないというわけである。

個人的には、純粋理性批判を読んでいてこの話が出てきた際に「そんなことないんじゃね?」と思ったりした。

というのも、人間の感性は大きく5つあるとされている。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。視覚で言えば確かに時間と空間はアプリオリなのかなと思う。が、例えば嗅覚の場合そんなことはないのではないかと思ったためだ。

嗅覚でも時間という形式はアプリオリだと思う(あるにおいがした後に別のにおいがした、という前後関係があるため)が、空間という形式はそもそも嗅覚には存在しないのではないか?「右のほうからいい匂いがした」というふうに一見空間という形式があるように見えるが、これは「右に動いたらさっきよりも匂いが強まった」ということなので、嗅覚として使っているのは結局時間という形式のみに見える。

こんなかんじで五感それぞれのアプリオリな感性の形式を(筆者の判断で)整理すると下記のようになる。

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五感の感性の形式

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カントは、(分析的な判断ではない)数学について人々が共通の認識をもてるのは、人々の認識のメカニズムに時間と空間という共通の形式が存在するためだとしている。

例えば「2 + 3 = 5」を人々が理解できるのは次のような行為を通して感性を働かせているためだ。

  • ①紙の上に2つの黒い丸を書く
  • ②その後に、3つの黒い丸を書く
  • ③合計5つの黒い丸が紙に書かれていることを確認する

紙の上に2つ/3つ/5つの黒い丸が書かれているのを認識するために使われているが空間の形式で、2つの黒丸の後に3つの黒丸を書くという行為(つまり3つを後から足すという行為)を認識するために必要なのが時間の形式である。個人的にこの説明は納得感がある。

ここで一つ思考実験をしてみる。

カントの言っていることが正しければ、空間という形式をもたない人は数学を理解することができない。僕の考えが正しければ、嗅覚と味覚のみをもっている人は空間という形式をもたない。両方とも正しいとすれば、生まれつき視覚も聴覚も触覚ももたず、嗅覚と味覚のみを持っている人は原理的に数学を理解できないということだ。

どうだろうか?

*1:例えば、普段から猿と接していない人は目の前に数匹の猿がいる場合にそれぞれを見分けることができない。対して、普段から猿と接している人は見分けることができる。感性からは同じ情報(猿の顔)を受け取っていても、もう一つの能力である悟性がないと対象を認識することができない。

数学は総合的?分析的?

カントの純粋理性批判の中で、(アプリオリな)総合的判断の代表例として数学が出てくる。これについてちょっと考えたのでメモ。

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総合的判断というのは、判断のうちで分析的でないもののことを指す。では分析的な判断とは何かというと、主語の中に述語が現れる場合のみ該当の判断が「真」であるとみなすような判断(の体系)のことだ。カントはそのように定義している。

例えば次の判断について考える。

定義1:りんごとは、赤くてまるい果物のことを指す。
判断1:りんごは赤い。

判断1は分析的判断である。「りんご」という主語の内容(定義)を分析すると「赤い」という属性が入っていることがわかるためだ。同じく次に示す判断2も分析的判断だ。

定義2:みかんとは、オレンジ色でまるい果物のことを指す。
判断2:ある部屋にりんごまたはみかんが存在するならば、その部屋にはまるい果物が存在する。

では、「数学が総合的判断の代表」とはどういうことか?次の例を見てみる。

判断3:1 + 1 = 2

これは分析的な判断ではない、とカントは主張している。なぜなら「1」や「+」といった主語概念を分析しても、「2」という結論(述語)が出てこないためである。分析的でない判断は総合的判断である。

ある判断が総合的なのか分析的なのかというのは、純粋理性批判の中ではとても大事な役割をもっている。それについてはまた別の記事で触れるとして、僕が面白いなと思ったのは、代数学の枠組みにおいてはこの判断は分析的な判断であるということだ。

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1とか2とかの自然数は、(少なくともカントの時代までは)雰囲気で生まれて雰囲気で使われていたが、1891年にジュゼッペ・ペアノによってきちんと定義づけられている。これをペアノの公理と呼ぶ。以下、Wikipediaより引用。

自然数は次の5条件を満たす。

1. 自然数 0 が存在する。
2. 任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。
3. 0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。
4. 異なる自然数は異なる後者を持つ:a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。
5. 0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。

この定義にしたがえば、1は suc(0) であり、2は suc(suc(0)) である。あとは「+」の演算の定義を適切に行えば、判断3が分析的な判断であることがわかると思う。

ここで大事なのは1や2という数字を、そのまま扱うのではなく主語を分析できる形にきちんと定義したことだ。これによって自然数に関する判断は(総合的判断から)分析的判断に昇格し、そこから整数、有理数、実数、複素数が次々と定義され分析的判断の体系に仲間入りしていくことになる。

(では現代数学はすべて分析的判断なのか?というと、たぶんそういうことではない。たとえば図形などを扱う幾何学はおそらく総合的な判断のままなのではないかと思う*1。)

とはいえ、19世紀から20世紀にかけて、現代数学の基礎付けという名目で多くの数学者が、それまで雰囲気で使われていた数学の道具を分析的に整理しようという活動をしていたことは確かだ。カントールラッセルの公理論的集合論ヒルベルトゲーテルが関与したヒルベルト・プログラムもこの一環ととらえられると思う。

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カントは数学を総合的判断の代表例としてとらえていた。一方で、現代数学は先人の努力の甲斐あって少なくとも一部は分析的な判断となった。

僕は情報数学を専攻していたので、上記のペアノの公理はずっと知っていた。ただなぜそのようにして自然数を定義づけようとしたのかはあまりよくわかっていなかった。純粋理性批判を少しずつ読む中で、18世紀の哲学者カントが提起した分析的判断と総合的判断にまつわる問題意識が、その後19世紀20世紀の数学者の意識やとりくみに影響を与えているのかなというおぼろげなイメージが浮かんできて、おもしろいなぁと思った。

メモおわり。

*1:たぶんとかおそらくとか言っているのは筆者が幾何学をあまり知らないため、、、

証明と真理値表

ヴィトゲンシュタインの解説本を読んでいたら、真理値表って面白いなって思う場面があったのでメモ。

大学生のころ、命題の証明法として「証明木」をつかったものを教わった。 証明木を使った証明とは、いくつかのルール(論理記号の「導入ルール」「削除ルール」)に従って、与えられた命題が正しいことを形式的に示すものだ。

たとえば「(A ∧ B) ∨ (A ∧ C) ⇒ B ∨ C」*1を示すには、以下の3つのルールが必要になる。(X, Y, Zはそれぞれ真または偽の値をもつ変数。)

∧ の除去:X ∧ Y が真ならば、 Xは真である。 (例:あなたが男性でかつ東京都出身ならば、あなたは男性である。)

∨ の導入:X が真ならば、 X ∨ Yは真である。 (例:あなたが男性であるならば、「あなたは男性または東京都出身である」という命題は真である。)

∨ の除去: X ∨ Y が真であり、Xを仮定してZという結果が証明できたとする。また、Yを仮定してZという結果が証明できたとする。このとき、Zは真である。 (例:すべての人は必ず男か女のいずれかである。ある人が男ならば、その人はいつか死ぬ。ある人が女ならば、その人はいつか死ぬ。したがってすべての人はいつか死ぬ。)

この3つのルールを用いると、「(A ∧ B) ∨ (A ∧ C) ⇒ B ∨ C」は次のように証明できる。

A ∧ B を仮定した場合、Bは真である。(∧の除去ルール)・・・①
①より、A ∧ Bを仮定した場合、B ∨ Cが真になる。(∨の導入ルール)・・・②

A ∧ C を仮定した場合、Cは真である。(∧の除去ルール)・・・③
③より、A ∧ Cを仮定した場合、B ∨ Cが真になる。(∨の導入ルール)・・・④

もし (A ∧ B) ∨ (A ∧ C) が真ならば、 ②④より、B ∨ C が真になる。(∨の除去ルール)・・・⑤
⑤は「(A ∧ B) ∨ (A ∧ C) ⇒ B ∨ C」と等しい。したがって与えられた命題が証明された。

こんな風に、あらかじめ決められたルールをカチカチ組み合わせて、求める形式までもっていくのが証明木を用いた証明である。

今回やったようにつらつら文章で書くととっつきづらいが、図示しながらやると全体の構造がとってもわかりやすいので、けっこうポピュラーな証明方法なのかなと思う。

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続いて真理値表を用いた証明方法について。

真理値表は、命題を構成する変数の真 or 偽の組み合わせと、その命題の真 or 偽の対応関係を表にしたものだ。 例えば「X ∧ Y」と「X ∨ Y」の真理値表は次のようになる。

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X∧Yの真理値表、X∨Yの真理値表
これを見ると、「X ∧ Y」はXとYがともに真のときにだけ真になり、「X ∨ Y」はXとYのいずれか一方が真の場合に真になることがわかる。

この図をながめながら「(A ∧ B) ∨ (A ∧ C)」と「B ∨ C」の真理値表をそれぞれつくってみる。これらの真理値表を作成するには、ただたんにAとかBに「真」「偽」の値を代入して、X ∧ Y とかの真理値表と照らし合わせればよい。形式的にできる*2

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(A∧B) ∨ (A∧C)の真理値表、B ∨ Cの真理値表

これらをながめていると、すでに (A ∧ B) ∨ (A ∧ C) ⇒ B ∨ C の証明が完了していることに気づく。 ⇒(ならば)は前提が真である場合に結論が真であるという推論規則である。したがって、 (A ∧ B) ∨ (A ∧ C)の真理値表の真になっている行が、B ∨ C の真理値表の真になっている行に包含されていればよい。真理値表を確認してみるとそのようになっている(表中の赤く色づけした行)ため、(A ∧ B) ∨ (A ∧ C) ⇒ B ∨ C が証明された。

ついでに、B ∨ C ⇒ (A ∧ B) ∨ (A ∧ C) が成立しないことも、真理値表を眺めているとわかる。(B ∨ Cの真理値表の真になっている行が、(A ∧ B) ∨ (A ∧ C) の真になっている行を真に包含しているため。)

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最後に所感。 真理値表を用いて命題論理の証明ができるということについて、面白いなと思ったことが2つある。

ひとつはシンプルに、こういう証明方法もあるんだな~ということである。正直、証明木をつかった証明も真理値表をつかった証明も、本質的にやっていることは変わらない気はする。(証明木における「導入ルール」「除去ルール」が、X ∧ Y や X ∨ Y の真理値表に相当するため。)が、実際に手を動かしてみて、証明をしたいだけなら真理値表を用いたほうが簡単に証明ができることがわかった。

もうひとつは、普段僕らが使っている論理命題(「(A ∧ B) ∨ (A ∧ C)」とか「B ∨ C」とか)って論理にとってそんなに本質的なものではなく、真理値表だけが本質的なのかなと思ったことだ。(本質的ってなんなん、という話はあると思うけど、、) ∧ とか ∨ とか ¬*3 とか ⇒ を使った命題の表現は人間にとってわかりやすい。が、真理値が同じ命題を何通りも生み出せる。例えば ¬ A ∧ ¬ B は ¬(A ∨ B) と同じだ(ド・モルガンの法則)。真理値が同じ命題を何通りも生み出せるということは共通した構造が背景にあるはずで、それをわかりやすく示しているのは真理値表なのだなと思った。

証明と真理値表についてのメモおわり。

*1:「∧」は「かつ」、「∨」は「または」を表す論理記号。

*2:B ∨ C の真理値表には本来はAは不要である。Aの値が真であろうと偽であろうとB ∨ Cの真偽に影響を与えないため。しかし今回は(A ∧ B) ∨ (A ∧ C)の真理値表と素直に比較するためにあえてAを入れている。表の上半分と下半分で B ∨ C の値がまったく同じであることがわかる。

*3:¬は「否定」を表す論理記号。

ディズニーランドの社会学:情報圧によるめまい

はじめに

僕が交際している女性はディズニーが大好きで、東京ディズニー両パークの年間パスポートを所有し、暇さえあれば新しいディズニーグッズやショーの情報収集に余念がない。いわゆるDオタである。パークの入場チケットを入手するため数時間にわたって一心不乱に予約サイトをリロードしている姿などはなかなか鬼気迫るものがある。

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彼女が撮ったミッキーマウス

個人的には、(対象がどういうものであれ)何かに熱量をもって取り組める人は素晴らしいと感じるたちなので、このまま彼女の道を突き進んでほしいと思っている。

その一方で、僕自身はディズニーランドに関してほとんど関心がない。アトラクションの待ち行列が苦手というのもあるし、ミッキーやミニーちゃんといったキャラクターに対してもそこまで愛着を感じることがない。ときたま彼女からディズニーランドに誘われることもあるが、休日丸1日を割くことと1万円ちかい出費を考えれば、できれば遠慮したいというのが正直なところだった。

......とはいえいつまでもそのスタンスでいるのも彼女に申し訳ない。実際にディズニーを好きになれるかはさておき、少なくとも関心を持ちたいと思って色々なメディアを漁ってみたところ、この記事の表題にもなっている「ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR(新井 克弥、2016)」という書籍にいきついた。

www.amazon.co.jp

この本がとても面白かった!

著者の新井さんは関西学院大学の教授でメディア論を専攻されているとのこと。大学時代はメディア論や社会学などまったく関心がなかった僕だが、複雑な概念もきちんとかみ砕いて解説してくれるのでスッスッと読み進めることができた。

いろいろある概念のうち「情報圧によるめまい」が特に面白かったので、以下でご紹介したい。

情報圧によるめまい

日本に多数存在する遊園地の中でも圧倒的な人気を博するディズニーランド。他の遊園地の決定的な違いはどこにあるのか?

書籍中で指摘されている要因の一つが情報圧によるめまいだ。めまいはイリンクスとも呼ばれる。これはフランスの社会学ロジェ・カイヨワが「遊び」を4つに分類したもの(下図を参照)のうちのひとつで、頭がぐるぐると回ってしまうような状態を指す。

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カイヨワによる「遊び」の分類

イリンクスの説明として最もわかりやすいのはジェットコースターだ。ジェットコースターは、そのスピードと落下の際に感じる不安定な浮遊感が魅力である。人々はこのスリルによって瞬間的に自らの所在を失い、自分が自分でないような不思議な感覚をおぼえることになる。この感覚を楽しむのがイリンクスだ*1

ところで、イリンクスはジェットコースターに乗らなくても「膨大な情報の中に身を投げる」ことによって獲得可能である。例えばオタクが自らのコレクションを部屋いっぱいに広げている光景を思い浮かべてほしい。このとき、ひとつひとつのコレクションの情報を一度に脳で処理するのはとても不可能だ。純粋にコレクションの量が多いというのもあるし、コレクション同士には関連性があるので、一つのコレクションのことを考えようとすると別のコレクションのことも同時に考えなければならない。オタクはこの膨大な情報の中に埋没することで、自分自身の所在を忘れてしまうような感覚(=イリンクス)を得ようとしていると考えられる。

この、一度には処理しきれないほど大量の情報の中に身を投げることによって感じるイリンクスを「情報圧によるめまい」と呼んでいる。

ディズニーにおける多重のイリンクス

ディズニーランドやシーなどのテーマパークでは、アトラクションの浮遊感などによる身体的なイリンクスと、情報圧によるめまいによる心理的なイリンクスを重ね合わせ、より重厚なイリンクスを構築していると筆者は指摘する。ひとつの例として、ディズニーシーで人気のアトラクションであるタワー・オブ・テラーについて紹介する。

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 出展:【公式】タワー・オブ・テラー

タワー・オブ・テラーはフリー・フォールと呼ばれる垂直落下型のジェットコースターである。箱型のライドが上下する時間は四十秒ほどで、ディズニーランドにあるほかの絶叫マシンと同様に、一般的な遊園地の絶叫マシンと比較しても怖くないつくりになっている。にも拘わらず人気なのは、アトラクションに付与された「シルキ・ウトゥンドゥの呪い」の物語があるからだ。

時は1912年のニューヨーク。1899年に起きたオーナーの謎の失踪事件以来、恐怖のホテルと呼ばれるようになった「タワー・オブ・テラー」。ニューヨーク市保存協会による見学ツアーに参加したゲストは、エレベーターで最上階へと向かうことに。身の毛もよだつ体験が待ち受けるとも知らず…。(引用:【公式】タワー・オブ・テラー

物語の詳細はWikipediaのページにゆずることにするが、タワー・オブ・テラーのQライン(待ち行列)に並ぶゲストは、長い待ち時間をたっぷりとつかってこの物語に没入していくのである。

ディズニーランドのアトラクション・レストラン・ショー・パレードにはひとつひとつにこのようなきめ細やかな物語が付与されており、また物語同士が関連し合っているものも多い。例えばディズニーシーにあるレストラン「ニューヨーク・デリ」は、タワー・オブ・テラーについての警告の記事を書いていたマンフレッド・ストラングがしばしば食事をしていたという物語が付与されている。前述したオタクの部屋のコレクションのように「あるアトラクションの物語に思いを巡らせると別のアトラクションの物語も連想してしまう」構造にもなっている*2

このように大量かつ複合的に絡み合った情報に触れたゲストは、情報圧によるめまいで心地よい没入感(=イリンクス)をもったままアトラクションを体験する。そこでもう一つの身体的なイリンクスを味わう。この二重のイリンクスがゲストをとりこにしてしまうという構図になっている。

おわりに

今回この本を読んだことで、ディズニーについての物語を知らずにアトラクションに乗っていた今までの僕は、ディズニーの楽しさの半分しか味わっていなかったということが分かった。物語を知ってパークを訪れれば二重のイリンクスが僕を楽しくしてくれる。

さっそくDisney+で白雪姫・シンデレラ・ピーターパンを観た。昔のディズニーアニメは王道のものが多くて心地よい。ディズニーランドに行くのが(少しだけ)楽しみになった。

*1:ジェットコースターは物理的なイリンクスだが、ほかにも、飲酒やエロスもイリンクスであるとしている文献もある。(https://core.ac.uk/download/pdf/234044693.pdf) ジェットコースターが苦手という人でも、アルコールで頭がふわふわする感覚や、恋愛で自分が自分でなくなったような感覚を楽しんだ経験のある人は多いのではないだろうか。

*2:本記事の中ではオタクの部屋とディズニーランドをともに「情報圧によるめまいを得られる場所」という意味で並べて書いたが、書籍中ではこの2つは明確に区別されている。ディズニーランドには物語を束ねる「テーマ性」がある一方で、オタクの部屋は何でもありのごった煮状態である。現在の東京ディズニーリゾートTDR)はテーマ性を失ってオタク化(=ごった煮化)してきているというのが、書籍の副題である「脱ディズニー化するTDR」の意味するところである。この概念もとても面白いものなので、機会があれば紹介したい。